推考歴史の導火線『山縣大弐と龍馬の接点を探る』第2回

前回、地元山梨(甲斐)出身の江戸中期の軍学者、思想家、山縣大弐の概略と思想及び、坂本 竜馬に伝わったた経緯について、推考しましたが、それでは、山県大弐の周りにはどんな人物が居たのか? 100年という時代の導火線はどんなかたちで連鎖したのか?

山縣大弐はどんな形で柳子新論を誰に残したのか?

推測によれば、弟子たちの誰か?

記録によれば、根小屋出身の門下生薗部文之進は,小塚原の刑場から、師の首を奪って帰郷し,茨城県新治郡八郷町の根小屋の自宅墓地に埋葬し立ち去ったといわれている。

それでは、門下生の薗部文之進からどうやって「柳子新論」は宇都宮默霖まで伝わったのか?

宇都宮默霖の師は誰か?

また、思想的な根源は何処にあったのか、というところに突き当たり、なかなか史実としての実証が残っていない中で悪戦苦闘いたしましたが、取り周いていた人物像を浮かび上がらせる事によって、思想の原点が解明できるのでは、そんな想いで、推考してみましたが、江戸中期の、盟和事件は、日本で鎌倉幕府成立以降の、武家政治を否定し、朝廷をもって国体の維持を図るという、当時としてはとてつもない考えでした 朝廷から見れば、幕府が朝廷に対して弾圧した様な意識に受け取られかねない事件で、勤皇思想を弾圧した弱みをすねに持ち、ひたかくしに隠した勝者の歴史の中では勝者の影に埋もれています。

 

山縣大弐の学問の師

加賀美光章(加賀美桜塢)かがみおうう

正徳元年(1708年)2月15日江戸生まれ、17歳で京都に遊学し、和歌を姉小路実紀に、国学を鳥谷長庸、儒学を東條兼連、天文暦を曾我部元寛、朱子学を三宅尚斎に、神学を玉木正英、について学びます。元文3年28歳、家名を継ぎ小河原村山王神社の祠官となります。1734年加賀美光章が小河原村山王神社に私塾「環松亭」をつくります。現在の甲府市下小河原の日吉神社です。1782年に72歳でなくなるまで、千数百人の門弟の指導に当たります。
今でいう一大大学です。朱子学的道徳を強調する一方、強烈な尊皇思想を吹き込みました。門弟からは、討幕論を主張し処罰された山県大弐などを輩出します。盟和事件では、謀反の門で連座投獄されるが、赦免になり。帰郷の後、再び塾生をおしえ、天明2年5月25日病没した。山県神社史では、帰郷途中病死とある。

 

山縣大弐の二番目の学問の師

五味国県(五味釜川)ごみふせん(荻生徂徠の孫弟子)

 五味釜川は(荻生徂徠の孫弟子)中巨摩郡藤田村(現南アルプス市藤田)の人で享保3年(1718年)に生まれ、父は、貞蔵、代々、医を持って業とした。生まれながらにしてぬきんでて、7〜8歳にして、すで俊傑の資質をそなえ11歳のときに江戸に出て、太宰春台(儒学の荻生徂徠の愛弟子)の門に学び、苦学、辛酸耐えること10年、学も徳も高く春台はとくにその才芸を愛で、護国学派の俊才と称された。その後、帰郷し、先祖伝来の医を継ぎ、傍ら塾を開いて里の子供たちを教授し、大いにその考え方を啓蒙した。

しかも、治療・教授の合間にあって遅々として怠らず、古今の書を読み文理を極め、特に詩文に長じ、加賀美光章と東西相応し一斉を風びし、峡中の天地自然として文教の隆盛を極めた。大弐は、加賀美光章に学んだ後、この五味釜川についてさらに勉学に励んだ。

 

宝暦事件で追放

 「藤井右門」

江戸中期の享保時代に尊王論を唱えて盟和事件で獄門に処せられた。出会ったのは、兄山縣昌樹が京にあって右門と知り合い、後に帰郷するに当り甲斐に来た右門を兄昌樹の紹介で知り合い、大弐と意気投合したのではないかと推考するのである。
寛延3年(1750年)には加賀美光章及び2〜3の弟子と酒宴を催し、8月15日には旧友を集め快談し、帰りには山本忠告と一緒に、亡き友飯田正紀の墓参りをしている。

 藤井右門の父は赤穂浅野家の家老藤井又左衛門宗茂で,浅野家が取りつぶされた後、越中射水郡小杉村で生まれたという。16歳で京都に出て,地下の諸大夫藤井大和守忠義の養嗣子となり,皇学所の教授となって尊王論を説いた。後に、京都を追放され(宝暦事件)、江戸の山縣大弐宅に寄宿、講師となる。盟和事件で、山縣大弐らと処刑される。

 

宝暦事件で追放 

「竹内式部」切磋の朋 琢磨の友

竹内式部は正徳2(1712)に越後本町通9番町の医師の家に生まれました。式部が上洛して、垂加神道を学んで徳大寺家の家臣となり、桃園天皇の近習徳大寺公城をはじめ少壮公家の有志に神道と儒学を講じた。そのうち教えを受けた公家が神書(日本書紀)を天皇に進講するまでになった。竹内式部の説いた垂加神道は、徳川四代将軍家綱の後見人会津藩主保科正之の賓師まで務めた山崎闇斎によって提唱されたものであったが、崎門三傑といわれる三派に分かれ、なかでも純儒派の浅見絅斎が提起した大儀名分論と勤王思想であった。浅見絅斎の主著『靖献遺言』は尊王斥覇の大儀名分を説いた。幕末水戸藩の志士たちに必読書とされたほどである。

 式部はさらに、朝廷衰微の原因は関白以下の非器無才にあるとして、少壮・下級公家の奮起こそ朝威回復の道であると説き、有志を集めて軍学と武術の実地訓練を行ったと伝える。式部の尊王思想は徳川将軍家のみならず、公家社会の序列を無視したもので、幕府転覆の企図が具体化する以前に、関白近衛内前は徳大寺公城らの官職を解いて永蟄居を命じ、式部を追放すへく所司代に告訴した(宝暦事件)。その後,知人であった山縣大弐らが明和事件で処刑されると,式部も捕らえられ流罪となり,その途上,三宅島にて病死しました。 

「三宅島流人罪名帳」は明和4(1767)に式部が病死したという記事と式部の署名・花押が記された断簡です

 

「大岡忠光」9代将軍側用人

上総勝浦より2万石譜代 雁間 城主

将軍家重の側用人から出頭した大岡忠光が上総勝浦より2万石で入って、以降、忠光の大岡家が代を継いで幕末に至る。 大岡家は吉宗が忠相を抜擢して初めて、諸侯に列したが、忠光もその一族であったが、微禄の旗本の子に過ぎなかった。西丸小姓として言語が不明瞭な将軍家重が幼いときから付き従い、忠光だけが将軍家重の言語を理解できた。自然、大岡忠光を通さずしては上意を伺うことができず、権勢はいやが上にも増した。ついに上総勝浦で1万石を得て大名となる。この時代山県大弐は勝浦代官、祐筆、典医、儒者などを勤め、その後柳子新論を書きあげる。忠光の死後暇を得ている。この後、岩槻に加増転封してきたものである。とはいえ、柳沢吉保や間部詮房、田沼意次らの加増ぶりに比すと、2万石というのは病弱だった家重を補佐した功績を考えると過分なものとは言えないだろう。

 

小幡藩主織田信邦 (後に天童藩へ移封)

2万石外様 大広間 国主格

織田信長の子孫は嫡孫の三法師織田秀信が関ヶ原西軍について絶えたあとは、信長二男の信雄の子たちが結果的に嫡流となる。

大名家として残った織田家は、信雄の流れが、この小幡と、丹波柏原に。信長の弟、織田-有楽斎-長益の流れが大和芝村、大和柳本。都合4家が大名家として存続する。なかでもこの小幡藩の織田家は嫡流として、小藩ながら国主格を与えられていたが、のち、「山県大弐事件」の関わりを咎められ、大弐が 捕縛されると幕府から家格の特別待遇を剥奪され、出羽高畠(のち天童へ移転)へ転封となる。山県大弐は過激な尊皇論を著わし、これと小幡織田家の家老・吉田玄蕃との間に親交があったことを咎められたものである。上州小幡は、城下町の雰囲気を残した町である。

 

  宇都宮默霖「うつのみや・もくりん」

吉田松陰に「柳子新論」を伝えた僧

幼名は真名介、僧名は覚了・鶴染。字は絢夫。雅は黙霖。

僧、宇都宮峻嶺の子。母は琴

文政7(1824)年9月、安芸国賀茂郡広村長浜(現・広島県竹原市)に生まれる。幼少より学問を好み典籍に通暁していたという。
天保11(1840)年出家。翌年、聴力を失い、筆談を以って諸国を歴遊。弘化2(1845)年、本派本願寺僧籍に入った。同3年黙霖と称して勤王を唱え、諸国を歴遊する。真宗興正寺派摂信に帰依した。

 嘉永年間、諸国の志士と交わりを結び、安政年間には幕府の追捕を免れつつ各地の志士と王政復古につき画策した。特に吉田松陰・三樹頼三郎・梅田雲浜・僧月性らとも親交があった。安政の大獄にあたり藩牢に繋がれたが僧籍ゆえに死罪を免れた。しかしその後も討幕に動いた為、第一次長州討伐のさい再度投獄された。明治元(1868)年大洲鉄然を訪れ、中国渡海の志を打明けた。

 同2年に許され、のち湊川神社などの神官を歴任し晩年は呉に隠棲した。明治30(1897)年9月15日、74歳で没。維新後、従五位を贈られる。墓は広島県東広島市八本松町(西福寺)にある。

 

参考文献

 

筑摩書房・日本の思想17  歴史読本・第18巻8号    講談社山岡荘八著・吉田松陰    新潮文庫山本周五郎著・明和絵暦・夜明けの辻  山県神社誌   飯塚重威著・山縣大弐正伝    成美堂出版徳永真一郎著・吉田松陰   山県大弐著・柳子新論 川浦玄智訳注

 

                 

次回予告

吉田松陰と宇都宮黙霖の出会いを推考いたします。