山梨ヤマナシ千葉チバさな
龍馬リョウマ19サイトキ京橋キョウバシオケマチ北辰ホクシン一刀イットウリュウ指南シナンする千葉チバ定吉サダキチケンマナぶため江戸エドく。定吉サダキチには
イチナン三女サンジョがあり、重太郎ジュウタロウ さな  がいた。 ムスメ さな龍馬リョウマより3サイ年下トシシタの16サイだった
二人フタリ婚約コンヤクをしたのは、龍馬リョウマ24サイ、さな21サイコロオモわれる。龍馬リョウマアネ乙女オトメにあてた手紙テガミ
さな絶賛ゼッサンしている しかし 二人フタリ夫婦フウフとして一緒イッショらすコトはなかった。龍馬リョウマ暗殺アンサツされ、
さな龍馬リョウマオモツヅけ、形見カタミとなってしまったモンフクカタソデ大切タイセツに、一生イッショウ独身ドクシンオワってしまう。
晩年バンネン、さな千葉チバキュウオサムイン生計セイケイをたてていた。山梨ヤマナシ自由ジユウ民権ミンケン運動家ウンドウカ 小田切謙オタギリケンメイ豊次トヨジ夫婦フウフ
親交シンコウカサねるが、さな死後シゴ豊次トヨジ無縁ムエンボトケになるのをオソブンコツをしセイウンナイ小田切オタギリ
ハカショにさなハカツクる。自然石シゼンセキ墓石ボセキには、オモテに「千葉チバさなハカウラに「坂本サカモト龍馬リョウマシツ」とキザまれて
いる。さな龍馬リョウマ名声メイセイのかげにカクれたウスサチオンナのひとりであった。
千葉チバさな 墓石ボセキセイウン 日蓮ニチレンシュウ セイウン
セイウン案内アンナイ
高木薫紹介ショウカイする千葉チバさなとうブンが土佐史談会の会報「土佐史談」170号に掲載されていました。
 甲府在青沼村に小田切謙明という人物が在った。彼は18歳で父の跡目を継ぎ、庄屋職を勤めたが役人と民衆の間に立って多くの苦労を
カサねた。
 明治元年、東山道征討総監乾退助に率いられた官軍は、敗走する幕軍を追って甲府に進駐してきた。乾の率いる官軍は、整然たる軍律の許に行動し、不安におののいていた民衆は避難先から家に帰り家業に就いた。乾は「自分の先祖が武田の武将板垣駿河守信形である。自分は天朝の命に依り、錦の御旗を奉じて今迄幕府の圧政の許に難渋している甲府の人々を救ひに来た。今日依り乾の姓を板垣に改める、私の体には甲州人の血が流れている。是非協力して天朝の為尽くしてほしい」と一般に布告し、民衆の協力を要請し、勝沼で抵抗する幕軍(近藤勇の率いた甲陽鎮撫隊)を追って進撃して行った。
小田切謙明は付近の庄屋たちと共に官軍の陣営で板垣から布告を告げられ、整然とした軍律と言動に深い感銘を受けた。
 王政復古の後、明治政府は樹立されたが征韓論に敗れた薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助、後藤象三郎、肥後の江藤新平等は郷里に引き上げ、前原は萩の乱に、江藤は佐賀の乱に、西郷は西南の役に命を絶った。
板垣等土佐派の人々は、坂本龍馬が描いた「船中八策」の「民意に依る政治」を考え、土佐立志社を設立し、自由民権運動の先頭に立った。民権運動は「遼原の火」の如く、全国津々浦々に広がっていった。
 謙明は自由民権運動の板垣が嘗て甲府に進駐してきた板垣である事を知ると、ためらう事なく此の運動に身を投じた。彼は草鞋掛けで甲斐の町や村を演説をぶって歩き、人々に「自由民権運動」と何たるかを説いて廻った。農業も捨て去って一生懸命狂奔し、遂に先祖から遺されていた山林や田畠の殆どは人手に渡っていた。
明治23年、第一回衆議院総選挙が実施され、謙明は自由党から立候補し、町や村を駆け巡り寝食を忘れて運動を続けたが、歴史に遺る内務大臣品川弥次郎の選挙大干渉に依って、自由党の候補者の大部分は落選した。謙明も見事に落選し、草鞋掛けで町や村を巡った事は効無く、選挙民は金の無い彼に冷淡であった。
 明治25年、第二回総選挙にも立候補し「日本の将来と之に対する自分の考え」を前にも増して訴えて廻ったが、然し、此の選挙にも当選する事は出来なかった。こうした心労が重なり中風症に罹り、種々の治療を行ったが、快くならず毎日を送っていた。
 丁度上京中の板垣が謙明の病気を知り、「東京の千住に坂本龍馬と縁故の会った女性が灸治を行っており是非治療を受けるよう」に推められた。秋の一日不自由な体で人力車に乗り、妻豊次に付き添われて千住に赴いた。訪ねる灸治院は人家の点在する裏長屋の軒先に「千葉灸治院」の古びた看板が肌寒い風にゆられていた。謙明夫婦が訪れると奥から上品な婦人が姿を現し容体を聞き、体の「つぼ」各所に施灸し「1ヶ月後に訪れるよう」推められた。
其の後、時々訪れる内此の婦人の立ち振る舞いの上品さと、板垣から坂本龍馬と縁故のある女性であると言われていたのを思い出し、彼の素性に就て興味を持ち、訪ねた婦人は始めはためらっていたいがお恥ずかしい事ですがと前置きし、次の様な身の上話を語った。
 「私は幕末神田お玉ケ池で北辰一刀流の道場玄武館を開いていた千葉周作の姪に当たり、父は周作の弟で桶町で道場を開き桶町の千葉道場又は小千葉と言われていた千葉定吉の次女で、姉は夭折し、兄と二人の妹がありました。土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永6年4月で坂本さんは19歳、私は3歳年下の16歳の乙女でございました。
坂本さんは翌年6月には帰国し、安政3年8月再び私の道場に参り修行に打ち込んでおりました。更に一年滞在延期の許可を得たとかで引き続いて道場に滞在し、父は坂本さんを塾頭に任じ、翌5年1月北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名も書き込む様に頼んでおりました。
 父は「例の無い事だ」と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。坂本さんは24歳私は21歳となり、坂本さんは入門した時からはずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年となっておりました。私も21歳ぼつぼつと縁談の話もありましたが、私は坂本さんを想っていますし、父も坂本さんならばと高知の坂本家へ手紙を出した様でした。坂本さんは其の年の9月、国に帰り再び私の道場へは姿を見せませんでした。兄重太郎に聞けば勝海舟の門下生となり、勤王運動に参加し、江戸に来ても道場に来る間もないだろうとの事でした。私は心を定めて良い縁談も断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応3年2月31歳になっていた私は坂本さんが11月15日京都で暗殺されたことを知らされました。妹理幾は安政3年労咳で死し、妹幾久は関宿藩士に嫁しておりましたが夫は幕軍で戦い維新後は兄の推めで小物問屋を開店しておりましたが西南戦争に警視庁の抜刀隊に志願し、負傷の後自殺し果てました。妹はそれから間もなく子供を遺して馬車にはねられ死亡しました。兄重太郎は鳥取藩池田家に仕えて官軍で従軍いたしました。維新後鳥取県の役人となり、後には京都府知事北垣国道様の肝入りで桶町の道場を売り払い、一家(妻幸、長女しげ、次女トラ)を上げて京都53歳で死去致しました。両親、兄弟総てに先立たれ、縁者と言えば兄の養子束位のもので、本当にひとりぼっちになってしまいました。私は世話してくれる人があって明治15年9月、学習院女子部に舎監として奉職しておりました。其の頃(明治16年1月24日)から高知士陽新聞に坂崎紫欄と言う方が、坂本さんの事を「汗血千里駒」という題で書き始め、後には単行本として出版され大変人気となりましたが、文章の中に坂本さんが師匠周作の娘光子と恋仲であったという部分があります。坂本さんは、伯父周作とは無関係で光子と言う娘もありませんでした。たぶん私の事を書いたのだ思っています」
 と言って、押入依り大事に保管してある由緒ありげな小箱を取りだし、箱の中の布切れを謙明夫妻の前に拡げた黒紋付いた着物の小袖でそれには桔梗を輪違いで包んだ紋が染め抜かれていた、
「之は父が坂本さんに贈るために染めていましたが国事に奔走し道場へも余り来なくなり、私が切り取り形見として持っております」と笑いながら話し、「汗血千里駒」の誤りを正すために、学習院でもずいぶん人に見せましたよと話し、明治18年9月、学習院女子部が華族女学校となり、校長に土佐出身の谷千城中将が就任し、引き続き勤務をしておりましたが、谷中将が農商務大臣となり下田歌子が校長の代理となりましたのを機に学校を辞職し、千葉家に昔依り伝えられている家伝灸を施して細々と暮らして居ます」
 と言う話であって、縁者もなく他人とも思えない佐那の身状に同情した。謙明夫婦は益々親交を重ねていった。然し謙明は政治目的を達することなく明治26年4月9日47歳で歿した。
 謙明が歿した後も妻豊次は佐那との交流を続けていた。佐那は明治29年10月15日当時の東京府南足達郡千住中組993番地で59歳で歿した。知人達に依って東京府営谷中墓地に葬られた。佐那に縁者が無く無縁佛になる事を考えた豊次は、分骨し自家の墓地に埋葬した。私は佐那の谷中の墓地を捜したが発見出来ず、昭和25年佐那の墓は無縁佛として八柱霊園に合祀られた事が分かった。
 昭和35年の秋だったと思う。上京の合間に佐那の墓を捜すため、中央線に乗じ小佛を越え、勝沼の線路の両側に広がる葡萄畑は色付き秋風が吹いていた。甲府駅で降り、小田切家の墓地のある清運寺の路地の奥に捜し当てた時、つる瓶落としの秋の日は暮れかかり、豊次の墓と対面し建つ自然石の佐那の墓は表面に千葉さな子墓、側面に小田切豊次建之、更に裏面に明治29年10月15日歿、坂本龍馬室と刻まれているの薄明かりの中にやっと読みとることが出来た。
 千葉定吉は明治12年12月5日に歿し、重太郎は明治18年5月7日於京都で歿し、深川の寺に葬られていたが、大正初年養子束が府営雑司ヶ谷霊園が開園されると共に、深川の寺から移し霊園事務所近くの墓所に現存している。また龍馬の行動を最初に世間に紹介した「汗血千里駒」の著者坂崎紫欄の墓所も其の近くに現存している。
東京千住に住んでいた千葉佐那、龍馬の死去の後転々として横須賀で西村松兵衛の妻となり名も「ツル」と改めていたお龍の二人は顔を合わす機会も無く、お龍は佐那依り7年長生きし明治39年1月15日66歳で歿した。」
と記されています。
文久3年8月14日、乙女姉さん宛の龍馬さんの手紙に佐那さんのことが記されています。宮地佐一郎著『龍馬の手紙』(PHP文書・平成7年8月15日発行・定価940円)から引用させていただきます。
「長刀順付ハ千葉先生(定吉)より、越前老公(松平春嶽)へあがり候人江(へ)御申付ニて書きたるなり。此の人ハおさな(佐那)というなり」と書き出して、佐那を熱烈に姉に紹介、「本ハ乙女といいしなり、今年廿六歳ニなり候。馬によくのり謙も余程づよく、長刀も出来、力ハなみなみの男子よりつよく、先ずたとへばうち(坂本家)にむかしをり候ぎんという女の力料ばかりも御座候べし」北辰一刀流剣術師範、桶町道場主千葉定吉の長女佐那は、元は「乙女」で偶然ながら姉乙女と同名であることを告げ、彼女は乗馬剣術、長刀も出来て、昔坂本家に女中奉公していた力持ちの「ぎん」を想定します、と紹介。
この時点で龍馬の心が激しく佐那に向かっていることが察せられる。男勝りで剣術切紙の腕前で馬術、弓術、水泳にも達していた乙女姉に詳報し、共感を得ようとする気配りである。竹馬の友平井収二郎の妹で、初恋の女と言われている平井加尾を出して「かほかたち平井(加尾)より少しよし。十三弦(絃)のことよくひき、十四歳の時皆いたし申候よし、そしてゑ(絵)もかき申候」と、一絃琴をはじめ音曲堪能の乙女姉に重ねて説いている。高知の加尾より江戸の佐那が「かおかたち」が良いのみか、体力、心ばえ、教養まで秀でているように褒めている。龍馬の燃え上がっている胸中を切々と伝え、大恋愛進行中の心も姉に打ち明けている。」
第1回千葉さな子剣道大会記録
第3回千葉さな子剣道大会記録
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