推考歴史の導火線『山縣大弐と龍馬の接点を探る』第1回

私は現在、甲斐市に住んで34年になります。地元では学問の神様として知られる山県神社があることは知っていましたどんないわれが在るのかはずっと知らないままに過ごして来ました

  祀られているのは、明和4年(1767年)に江戸幕府によって明和事件で斬首された「山県大弐」という人で、今から約240年も前の人ぐらいの事しか知りませんでした。この人が、遠く幕末に巻き起こる勤皇倒幕のうねりの基を提起していたなんて、、、、考えもしませんでした。
   そもそも明和事件とは 孟子の放伐論によって徳川幕府を否定し、日本の古代王朝政治に王道を見ようとして、民衆の教化に乗り出し。これを弟子が密告した為に捕らえられ斬首された事件で、時に明和4年(1767年)8月22日、山県大弐43歳でした

勤皇倒幕思想の人です。ルソーの社会契約論に遡る事12年、8代将軍吉宗から9代将軍家重、治世の時代に、思想を掲げて、書をなした人物であります。 この思想は「大弐」の著書『柳子新論』十三編に凝縮されているのです。この時代幕府の膝元にあって堂々、幕府攻撃の論陣を展開するものは、当時幕府の隆世を考えると危険思想と言えました。深く国体を研究する漢学者、国学者多しといえども、このような論陣を張るのは大弐のみでした。遠く幕末に巻き起こった勤皇倒幕の矩火をかざした先陣の一声だったのです。 

山県大弐の名は昌貞(まささだ)。号を柳荘(りゅうそう)と唱え、甲斐の国巨摩郡篠原村(現在の中巨摩郡竜王町篠原)に生まれ、幼名は「三之助」享保10年(1725年)某月日。父は領蔵(山三郎ともいう)といい、郷士、野沢氏(新羅三郎義光の末裔)の後裔になると言われています。

この年は、新井白石が69歳で没した年にあたります、これより3年あとには元禄の赤穂事件で浪士の切腹を上奏した、荻生徂徠も63歳で没しています。 姓は信玄公、勝頼公に仕えた飯富(おぶ)三郎兵衛(信玄の長子、太郎義信のもり役飯富兵部少輔虎昌の弟)が絶えていた山県姓(清和源氏の末裔になる)を信玄公から許されて継いでから、正景と改名、長篠の戦いで戦死しています、その十一世(八世とも言われる)の孫に当たるといわれています。

 大弐は、甲斐の国、山梨郡の山王権現の神官「加賀美桜塢」(かがみ・おうう)に5年学び、その学問は、すこぶる深博で皇学、儒仏、天文、地理、音楽、数学、医学まで通じないものはなかったと言われとりわけ兵法は突出していたそうです。

この他、同郷の大儒士「五味釜川」(ごみ・ふせん)に就いても深く交流を求め、13歳から藤田(南アルプス市藤田)の塾に通い学んでいます。この後、現在史跡として昭和町西条に残されている山本家碑の、山本忠吉らとも深く親交があったことが、昭和町の同家所蔵の文書にあります。

18歳には京都に遊学、高倉、花山院、日野、綾小路等の諸家にて有識典故の学を修め、陰陽道を土御門泰邦に学び、27歳江戸に出て医を業とします。

30歳のとき岩槻藩主・大岡忠光(9代将軍家重の側用人、大岡越前守忠相の同族)に仕えて安房勝浦代官、典医、儒者、祐筆を努め、35歳で『柳子新論』を書き上げます。上梓されたのは構想より10年後1759年、 1745年に吉宗政治が終って14年後、9代家重の時代です。

国学者、兵法学者で、京にあって皇道を説いた竹内式部、藤井右門などとも深く交流がありました。「竹内式部」「藤井右門」は、宝暦の変(權大納言徳大寺公城など多くの公家に幕府非難の論を説いた)で追放になっています。その後、忠光の死を得て、大岡家を去り、江戸八丁堀永沢町に私塾を開き儒学、医学、兵学、天文、経済、地理などを広く教えるのです。

その中で、上野(こうづけ)小幡藩(織田信邦2万石)の家老・吉田玄蕃と最も親しく交流を持ったようです。この小幡藩の改革を断行した家老の玄蕃に反対する藩士(今で言うところの抵抗勢力)が、大弐の門弟に小幡藩士が多くいるのを妬み、改革の根源は「大弐」にありと、反家老派が「玄蕃と大弐が結託し謀反を計る」と幕府に訴えたことによって事件に発展します。幕府はこれを朝廷にひた隠しにしたのです。この処分によって、明和事件は幕を閉じます。

この皇室崇拝の勤皇思想は、吉田松陰にも計り知れない影響を与えています。『柳子新論』は秘密の写本として残り約100年後、浄土真宗の僧侶・黙霖(ぼくりん)によって松陰にも写本で伝えられ、問答をしています。

黙霖は松陰の考え方は水戸学に影響された幕府を諌める域をでないと見て質問します。「幕府の政治は覇道にほかならず、わが国を古えの朝廷政治に戻さねばならない、孔孟の道に従い今の幕府は放伐すべきである。水戸学は口では尊王を説くが、未だかつて将軍に諌言して、天室を重んじたためしがない。われらがなすべきことは一生でかなわねば、二世、三世かけても、王政復古を計ることである」と説き、柳子新論の写本を渡すのです。

これによって松陰が、倒幕に転じ、革命家としての意識を身に付けたといわれています、「松下村塾」の門下生にも多大な影響を与えたと推測できます。

 司馬遼太郎は言います「歴史は非情だ、山形大弐・吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作・武市半平太・坂本龍馬らを必要なときに遣わし、もう要らないと時がくると、人の及ばぬ時間(とき)にささっと、召し上げてしまう」と。

 明治13年、明治天皇が山梨に行幸の折、大弐の非命に死するのを悼み、尊王の志を痛み祭祀金を持って、志を尊んだことにより、やっと、日の目を見ることになったのです。明治24年12月(没後125年)には朝廷がその誠忠を嘉(よし)とし、特別な旨を持って正四位を追贈しました。

 およそ、革命家には、三種あるといわれます。まず予言者、その後に、いわゆる主役つまり革命家、そして、最後は建設的革命家であろうと、かの徳富蘇峰は変節して改稿する前の著『吉田松陰』で述べています。

 私は、維新の予言者が「大弐」であったと考えています。本幕の革命家、思想家が「吉田松陰」、建設的革命家は、「高杉晋作」、「久坂玄瑞」、「桂小五郎」、「坂本竜馬」、「西郷隆盛」、「大久保利通」等です。彼らと佐幕派の血と汗によって完遂した幕末から維新の歴史は、縁もゆかりも無かったと思っていた甲斐(山梨県)出身の学者によってすでにその100年も前から導火線が敷かれていた。そう思うと、戊辰戦争終結から、136年、西南戦争から126年後の今、身近な話の歴史のめぐり合わせに驚くばかりです。松蔭神社の入口の石碑に刻まれた「日本の夜明け胎動の地」の銘の原点は山梨にありました。

次回は、大弐の人生を変えた人の巡り会いを記します。

 

参考文献

筑摩書房・日本の思想17  歴史読本・第18巻8号    講談社山岡荘八著・吉田松陰    新潮文庫山本周五郎著・明和絵暦・夜明けの辻  山県神社誌    飯塚重威著・山縣大弐正伝     成美堂出版徳永真一郎著・吉田松陰  山県大弐著・柳子新論 川浦玄智訳注 

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