歴史の導火線「山縣大弐と龍馬の接点を探る」続編

    「小幡藩織田家天童移封の真実」 

               山梨龍馬会甲斐援隊  中 澤 憲 雄

大岡忠光は8代将軍吉宗の長男家重の小姓役として登用されて以来、常に家重の側にあり、家重が9代将軍になると若年寄に任じられた。

 幸運と言うほかはない、家禄が増えるに従い、家臣を募集していた。大弐は応募し、よほどの才を見込まれたのか、仕官後すぐに勝浦の代官に任じられ赴任した。甲府城の与力であった実績と兵学、政治学を高く評価されての事であった。

 大弐が着任早々行ったのは領内の貧困の原因を改善する事であった、代官にはかなりの裁量権がありその権限を活用減税作を奨めたのであった。約2年後、主君忠光は側用人を命じられそれを機に大弐も江戸藩邸によびもどされ、忠光の相談役にひきあげられて、医官・需官として勤める事となった。この時代に『柳子神論』を書き始めるのである、側用人の主君に仕えながら、なぜ大弐が倒幕の意思を前面に押し出した『柳子神論』を書いたのか?

 たぶん、次の三つの要素が働いたと推測できるのである。
ひとつは、勝浦代官時代の農民の貧困と困窮を目の当たりにしたときの、学んだ学問との乖離ではなかったか、ふたつめは、側用人の相談役として耳にする武家政治の腐敗ではないだろうか?
みッつめは、朝廷での大事件の勃発である、宝暦事件という。

 宝暦八年、公卿・徳大寺家の需官だった竹内式部の関係した事件である。権威を失墜されていた若い桃園天皇は竹内式部の勤皇思想を非常に喜ばれ、事ある如に内裏に召還しては、その講義に耳を傾けていた、このため徳大寺家は朝廷内において発言力を大きくし始めていたのである。
 いつの時代も、出る釘は打たれるの諺どうり、徳大寺家もそれを嫌った他の公卿達による追い落としの標的として、竹内式部を京都所司代に訴えた。 幕府は、これを好機ととらえ竹内式部を喚問し、京都から追放し、その思想に共鳴していた公卿達にも厳重な処分を与えあて、朝廷内部の危険分子の一掃に成功したのである。

 徳川幕府開府以来、初めての勤皇問題であったはずであり、竹内式部の名前は歴史にきざまれたのである。だが、竹内式部は理想論者であり天皇に直接講義できる立場の人間だった、そこが幕府の神経を逆なでさせたと推測できる基ではないだろうか? 事件の経過を気にしていた大弐は、このあからさまな勤皇思想の弾圧に対し、悲憤と絶望を自覚しながらも、この世にいる倒幕論者の存在を確認したと思われる。

 

宝暦十年、主君の大岡忠光が病没し、大弐は、大岡家を去る決心をする、そして北八丁堀に再び塾を開いた。 大岡家の需官だった経歴がものをいい、門弟が数多く集まり、ある書物では門弟3000人とも記録されている。『柳子神論』を中心とした講義は、多くの門弟の心に動揺と勇気とを与えた事だろう。それでも幕府による介入はなかった。 勤皇思想の先駈者との思いは大弐を行動に走らせる。本書紀によると、景行天皇の四十年日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷を平定した帰りに酒折の宮にて宴会をした。このとき詩を以て武者達に問うた。
 「新治筑波を過ぎて、幾夜か寝つる。」
 諸々の武者達は応えられなかったが、この時火を燭していた者が尊の詩に続き
 「かがなべて夜には九夜 日には十日を。」
 と詠った。そこでこの火燭人の聡明を誉めて厚く褒  美をしたと云う。
(古事記では、火燭人が火薪の老人となっていて、褒美に東の国の造にしたとなっている)
また、この詩の問答から、ここ酒折宮が「連歌発祥の地」といわれている。
                               
 故郷甲府に荒れ果てている「酒折の宮」の再建である、日本武尊は「日本書記」に登場する英雄であると共に、天皇家の礎となった人物である。その宮を再建する事は、すなわち日本の国体が朝廷に帰属している事を世間に訴える事に繋がる。

 酒折の宮再建がなると、その碑に暗に徳川体制を否定する檄文を刻み、勤皇の旗揚げを促した。完成式には江戸の門弟はもちろん、加賀美光章を筆頭に甲府在住の同調者が多数参加し、京都を追放になった竹内式部も顔を見せていた。この完成式は幕府にとっては、やがて来るべき維新の兆しと言うべき出来事であった。この2〜3年の間に、生涯の友とめぐり合う、上州甘楽郡小幡藩織田家の上席家老吉田玄蕃、30歳代そこそこの若さで藩主織田信邦(織田信雄流)にその才を高く評価されていた。玄蕃は大弐の評判を聞き及び塾を訪ねて、その日の内に門弟となった。
 小藩といえども上席家老が門弟になったのである、が、、大弐は玄蕃を門弟としてより盟友として接し、現場もそれに応える付き合いが始まった。
 度々大弐を小幡に招いては、藩士への講義を頼んだ、藩主信邦も幕府妥当を提唱する大弐の講義に心打たれる事が多かったに違いない、徳川の主筋にありながら、不当二軽んじられ手いると言う思いは当然あったに違いないから、、、
 講義する大弐も江戸をはなれているという安心感があったに違いない、将軍の膝元でははばかりある言動も同調者ばかりの小幡藩では遠慮の必要がなかったのではと推測できる。 徳川打倒の機運は小幡藩に休息に広がりを見せ、親戚筋の細川藩、栢原の織田家にも飛び火していく気配を見せるまでになった。理想論が司代に現実のものとなりつつあった。

 しかし、小泉内閣にも抵抗勢力があったように、小幡藩内にも保守勢力があった。
用人松原郡太夫・家老の津田頼母・用人津田庄蔵らが吉田玄蕃の台頭を不快に思っていた、ましてや藩全体が大弐の倒幕思想に染まってゆく事に危惧を覚えていた。
 直接幕府に訴えでれば小幡藩そのものが危うくなる、そこで藩主信邦を飛び越え信邦の実父信栄に直訴し、とうとう玄蕃の藩邸への拘禁に成功してしまう。

 藩の内部の問題として決着をつけたのであるが、卑しくも現職の家老が拘禁されて、外に漏れないはずはない、うわさが広がると、今度は大弐の門弟からも、大弐謀反の訴えが幕府に出された。原因は藤井右門と門弟のやり取りの遺恨のようだった。
 幕府は、即座に行動し関係者の一斉逮捕に踏み切った。明和四年二月十八日の事である、山縣大弐正伝によれば、このとき総数四十名に上る逮捕者を出した。 逮捕の様子は「近世見聞録」に詳しく書かれている。
宝暦事件で追放中の竹内式部、同・藤井右門、山縣昌樹、加賀美光章、書生・富永道生、同・東樹、下男・弥助、家主・安兵衛 民間人まで芋づる式に徹底的に追跡されている。
こんな話もある、、、、
 大弐の師ですでに亡くなっていた「五味釜川」の墓石に縄をかけたというはなしがあった。この事件を幕府が重要視していた、、かということに他ならない笑えない話である。
 さて、幕府も立場上,朝廷から征夷大将軍を頂き治世を行っている、いわば朝廷の臣下であり、勤王を標榜している立場にある、この時代これはもはや名目にすぎないのだが。
 逮捕された「大弐」が裁きの場で勤王を訴えれば訴えるほど処分が難しくなってしまう、幕府関係者には、目の上のたんこぶともいえる小幡藩織田家も存在していることも微妙に採決に関係してくるのである。
 片言持って定めがたしの諺の通り詳しく突き詰めたい幕閣も手を焼いてしまった。直接取調べをした、奉行の阿部豊後守は謀反の話、江戸焼き打ちの説明を求めた。
 大弐は、自分の仮想した城は甲府城である事、兵法者が兵法を語るに標的が必要な事、それは自分が甲府城の与力だったからそうなったと説明し、奉行も一応納得し甲州軍学についての説明を求めてきた。
 甲府の冬の季節風を利用しての城攻めの説明に黙ったまま聞いていたといわれています。
 他に柳子新論では、奉行に対し大儀名分を解き、王政復古を申し立てた。直接幕府の人間に訴えたかった意思がそこに浮かび上がる。 大弐の心中を持ってすればここがひのき舞台に思えたことだろう。
 天文学・音楽・和算等の説明をも聞いた阿部豊後守は大弐を殺すのは国の損失であると老中に進言したという話も伝わっている。

 罪状に苦慮した幕府は「謀反」については無罪と認めた、だが幕府にとってこの上ない危険な思想家をほうって置くわけにはいかなかった。
 この平和な時代に兵学と言う不穏当な学問を広め、そのモデルに国家機密とも言える甲府城の絵図面を用い、与力時代の時の情報をむやみに広言したと、無理やりともいえる理由で、死罪にしたのであった。
 この時代、各地に兵学家は多く、城の図面にしてもすでにいくつかの公刊物があったはずであり、大弐が与力時代の17年も前の情報であり誰が聞いても納得できない罪状だった。
 
 ところが、これが小幡藩織田家には逆転の判決となるのである。つまり、吉田玄蕃は完全に無罪となった。謀反の問題が宙に浮いてしまった、玄蕃を攻める理由がなくなってしまった。
 吉田玄蕃は反対派の策動の内に、弧節を守る者として遂に無罪とされたのである。
 今度は反対に、告発した方の松原軍太夫・津田頼母に罪がかぶさってきた、無実の人間を権力失墜目的のために拘禁したのは不行届きであるとの判断になった。
 国家老・津田頼母 同用人・松原軍太夫 同・津田庄蔵 在府年寄り・柘植源四郎は重追放の処分となり、 崇福寺僧・梅雙(ばいそう)は一味の連謀者であり、この事件の導火線的存在にも係らず巧みに言い逃れて軽追放の処分になった。

 だが、小幡藩織田家としても責任を負わねばならなかった。
先ず。当主、美濃守信邦は幕府に内蜜のままにことを運ぼうとした罪により蟄居閉門、実弟八十八信浮(のぶちか)に相続させ、奥州出羽高畠へ転封、国主格から寄合格となった。実父の対馬守も高家侍従職を離れ、一子式部が跡目を継いだが寄合席に没落させられた。

 この後、織田家は、同じ出羽の天童に移封され、幕末を迎える。玄蕃の子孫は代々家老として藩公を補佐し、明治初年に庄内藩との抗争で名をとどろかせた「吉田大八」は実に玄蕃の曽孫であった。
 また織田家は廃藩と同時に子爵を授けられ、織田信恒は産業界の一線で活躍した人物である。

 徳川一家繁栄のためには密告奨励をさえ遇えてした幕府ではあったが、謀反ありとの噂や風説を信じて訴えでる事は、逆に、噂や風説が実在するかのような印象を人々に与えそれが頻発するようになり、謀反にたいする不感症状態を誘致する事になってはとの恐れから訴人に遠等という重罪を課して世人に戒訓する必要があったと推考できる。
 また、仕官の志を得られぬ浪人が世情に充満し、景気の変動も激しく、また天災才続発の当時、もし訴人に恩賞があったなら、人心の不安定な民衆の中から同じような訴人が現われ、思想悪化を招く事になっただろう。明和事件は、謀反という幕府の神経質な思考の2番目(最初は由井正雪・丸橋忠也)の犠牲者だったのかもしれない。

                                              続く                  

参考文献

筑摩書房・日本の思想17    歴史読本・第18巻8号  講談社山岡荘八著・吉田松陰    新潮文庫山本周五郎著・明和絵暦・夜明けの辻  山県神社誌   飯塚重威著・山縣大弐正伝    成美堂出版徳永真一郎著・吉田松陰  山県大弐著・柳子新論 川浦玄智訳注 高橋克彦著・広重殺人事件 石井計記著・黎明以前

                                 山縣大弐のページへ戻る